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2013年10月 9日 (水)

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ④なぜ「江本龍明」という名を隠そうとしたのか

母親の介護でブログを休んでしまいました。
暑さも遠ざかり母親の体調も回復し、少しづつブログは再開したいと思います。
前回からの続きです。
この記事は、戦時下の文鮮明をテーマとしている私の現時点における集大成です。
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文鮮明の日本留学時代の「早大卒」という学歴について昭和50年(1975年)を境に統一教会の扱い方が大きく変わります。
大きな要因は、この年の前後に反統一教会の社会的動きが大きくなり、ジャーナリストや知識人によって文鮮明の経歴のいろいろな嘘が暴露されていったことが考えられます。

本題に入る前に前回の統一教会による資料をまとめますが、この資料の年代と事項は現在統一教会が公式に認めているものです。
まとめますと、最近の「特高月報の早大生、江本某は文先生だ」(文鮮明自叙伝「平和を愛する世界人として」増補版)という記述を除けば、以下のようになると思います。

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文鮮明は創氏改名後の名前を江本龍明とし、1941年4月早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学。(この年12月太平洋戦争開戦)。

新宿区西早稲田一丁目にある三橋孝蔵氏の家に卒業するまで下宿するのですが、留学時代の地下活動について言ってきたことを以下列挙します。

1、東京留学三年間、激しい抗日運動をし、友達と秘密結社を組織した。

2、中国で亡命中の韓国臨時政府の金九と背後で連絡をとり地下運動をした。(1978年統一教会史上巻)

3、要視察人物となり、日本留学中には毎月一度ずつ警察に呼ばれ行動を監視されていた。

4、徴兵に対する韓国人留学生の抗議集会が開催され、その首謀者の一人が文鮮明。

5、戦局の悪化とともに、卒業を半年繰り上げて1943年9月に卒業。自分は理系だったので徴兵免除。

6、卒業後すぐ半島に戻り「鹿島」に電気技術者として就職。

7、就職後、日本での地下運動がばれて拷問されるが、拷問後鹿島に戻ることができた。
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それでは1975年より前には彼らはどのように言っていたのでしょう。

学歴と名前について考えてみます。

ここに2冊の著書を紹介します。(URLをクリックして北風と太陽OCN版からダウンロードしてください)

「原理運動の素顔」山口浩著(エール出版社)(1975年発行)・・文は本当に早稲田大学を卒業しているのかP135

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/05/post_55aa.html(全文)

 

「原理運動の実態」茶本繁正著(三一書房)(1979年発行)・・早大時代の謎 p100p103
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/05/post_2f7b.html
 (全文)

 

統一教会は文鮮明の留学時代の抗日運動については事あるごとに言ってきました、また「早大卒」については、この2冊の本が出版された当時の段階では、文鮮明本人が言っていたのか、日本統一教会の幹部がでっち上げたものかわかりませんでした。

文鮮明本人の発言であることを決定づけたのは、1993年週刊ポストに掲載されたジャーナリスト大林高士の崔先吉(文鮮明の最初の妻)へのインタビュー記事でした。

崔先吉女史 が文鮮明師との離婚原因を明らかにする・・・・ 199310.08週刊ポスト

http://freedom-cult.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/19931008-6851.html

 

この記事によって、文鮮明は見合いに際して早稲田大学を卒業したと言っていたことが彼女の証言で明らかとなったのでした。

 

しかし入学したのがいつなのか、卒業したのはいつなのか、もともと嘘の学歴ですから仕方なないことですが、彼らの扱いは一転二転します。1974年の早稲田の原理研のパンフで入学年を1936年とし、日本名を『山本朋成』と記入したのが最初と思われます。

ところが、ネットで検索すると、昭和50年(1975年)の早稲田大学の名簿で昭和19(1944)卒業者「山本朋成(文鮮明)」という記載があるようです。

8年も大学に在籍などあり得ない話なのですが、統一教会と原理研究会はおそらく、文鮮明の虚偽の言葉を真に受けて在籍しない文鮮明の亡霊学生に振り回されていたと思われます。

 

この経緯について、「原理運動の実態」によれば昭和47年(1972年)の早稲田の大学紛争での早大生川口君の死亡事件を契機に、早稲田原理研(中心人物は井口康雄)が左翼学生運動を憂うキリスト者を装い、巧みに早稲田当局内部に人脈を作り出し、早稲田大学村井総長夫妻にたどり着き、昭和50年発行の卒業名簿に昭和19(1944)卒業者「山本朋成(文鮮明)」という大嘘を明記させることに成功したと思われます。

そして村井総長は統一教会の狙いを知ることもなく、昭和49年5月7日「文鮮明 『希望の日』晩餐会」(帝国ホテル)にも出席していたのでした。

 

ところが昭和50年発行された山口浩著「原理運動の素顔」によれば、文鮮明の創氏改名後の名前が「山本朋成」ではなく「江本龍明」であり、早稲田大学に在籍していなかったことが彼の調査や毎日新聞の記者の調査で明らかとなったとあります。

このころから文鮮明の早稲田大学卒という学歴、名前について統一教会の雲行きが怪しくなり始めます。
そして翌年(51年)には、村井総長名義の故川口君の記念するセミナーハウスが統一教会に奪われる事件が発生し、村井総長は統一教会により騙されことを知ることとなり、裁判となります。
週刊文春等のマスメディアでも取り上げられ、統一教会問題が社会的にクローズアップされることになったのです。
そして、早稲田大学は52年になり文鮮明が早稲田大学の卒業生ではなく、早稲田高等工学校卒(夜間の各種学校)であることを明らかにしたのでした。


更に、53年には参議院議員市川房江の呼び掛けによる「原理運動を憂慮する会」が発足し、会長に早稲田大学の村井資長総長が就任し、神学者浅見定雄氏らが参加し統一教会問題が国会の場でも大きく取り上げられるようになっていったのです。

 

「江本龍明」という名前を隠したかった文鮮明と 特高がその正体を隠したかった「早大生、江本某」

 

早稲田高等工学校は当時の専門学校令で云う高等工学校ではなく、各種専門学校としての認可だったのですが、カリキュラムは早稲田大学理工学部が施設と教員を提供したものであり、電気、機械、建築、土木の分野で資格を取得しうる教育がなされたようです。
戦後専門学校への昇格申請が認められず閉校となったのですが、働きながら学ぼうとする当時の苦学生に門戸を開いた学校です。

では、なぜ文鮮明がそこで学んだことを正直に言えなかったのでしょうか。

彼の法螺吹きの性格を鑑みてみると、当時の早稲田原理研を利用し、あらゆる手を使って大学の資料を書き換えてでも「早大生、文鮮明」を演出したかったということが考えられます。

 

皮肉にも、文鮮明の学歴詐称が暴露された昭和50年というのは、戦前、戦時中の特高月報の記録をそのまま掲載した「昭和特高弾圧史全8巻」が発刊された年でもあります。
第8巻の「朝鮮人に対する弾圧」での「早大生、江本某」の記述に恐らく文鮮明も驚いたと思います。

 

学歴詐称が暴露された直後でもあり、統一教会は今のように「早大生、江本某」が文鮮明であると名乗り出ることができなかったようです。

それ以来、統一教会は文鮮明のプロフィールで「早稲田高等工学校」という事実を明記せざるを得なかったのです。

 

実は特高月報の「早大生、江本某」というこの表現にも、大きな矛盾があるのです。

特高月報をもとに早稲田大学に問い合わせをされた方がいます。彼の調査よれば、当時早稲田大学に朝鮮人留学生で江本姓の学生が在籍していないことが明かとなっています。

それでは、特高月報の「江本某」は、誤記だったのでしょうか。


実は、特高月報よく読んでいきますと、あるグループが検挙される事件の報告に、ときどき「○○某」という記載があるのです。

そして、「社会運動の状況/内務省警保局編」全14冊三一書房(19711972)の中には、特高が怪しいグループを内偵する際必ずグループの仲間に成りすました人物の存在が明らかとなっています。スパイです。

「○○某」は特高のスパイと考えると、文鮮明が江本姓を隠した理由と特高が船橋グループ検挙事件の報告書に一人だけ(江本)だけフルネームにしなかった理由が一致するのではないでしょうか。

 

彼は早稲田大学に放たれた特高のスパイであり、夜は早稲田高等工学校の生徒であり、昼は早大生に成りすました生活を送っていた。

戦争が終わり、もともと法螺吹きの性分から早大卒と云ったのはいいが、同胞を特攻に売り渡した「江本」姓は隠し「山本朋成」と言わざるをえなかった。

こう考えるとすべて説明がつくと私は思うのです。

山口浩氏はいみじくも

「卒業生名簿に載っていなくとも、文鮮明は早大に在学していたとでもいうのか。」

と述べています。

 

その後1978年発刊された統一教会史上巻には「中国で亡命中の韓国臨時政府の金九と背後で連絡をとり地下運動をした。」という記載があります。

金九という朝鮮人は当時、蒋介石の金銭的な支援を受け朝鮮独立を目的とした臨時政府を打ち立てた人物で、今日その功績を称えるべくソウルに白凡記念館があります。

韓国の民族運動家・金九の生涯を知る「白凡記念館」
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=2058

 

「昭和特高弾圧史全8巻」の第8巻「朝鮮人に対する弾圧下」には

()昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鏑禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲綿せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇勤を為したり。

 

今、統一教会は、この統一教会史上巻の記述と特高月報の一致を見て、特高月報「早大生、江本某」は文鮮明だという宣伝を、実在しなかった早大生文鮮明という大きな矛盾に目を瞑りながら展開しています。

ここまで読まれてお気づきの方も見えると思いますが、彼の口から具体的に臨時政府に金九の名前が出てきたのが昭和53年の「統一教会史・上巻」だとするならば、「昭和特高弾圧史全8巻」は3年前に発刊されているのですから、後出しジャンケンの好きな統一教会が口裏を合わせたと言われても仕方のないことです。

 

文鮮明こと江本龍明は、早稲田大学朝鮮人留学生の諜報活動を担うことを負わされた特高が認めた「早大生」だった。

だから彼は経歴で「早大卒」とは言えても、「江本龍明」と名乗ることはできなかった。

特高側も諜報者がばれないように、記載を江本某としか曖昧にせざるをえなかったと思われます。

特高月報「在船橋市朝鮮人苦学生を中心とする「民族主義ゲループ」事件」では逮捕され罪状が決定したのは主犯格である神田恩波他10名です。月報から読み取りますと、江本某が検挙されていない理由は、彼は戸塚の白鷺荘に呼ばれ地下活動グループに勧誘されただけのノンポリの早稲田大学生という位置づけようです。

彼の言葉から留学当初から3年間地下活動をしていたということが本当ならば、罪状が決定して投獄されて当然です。1か月に1度戸塚署に呼び出されていた要観察人物程度では済まなかったと思います。

昭和16年の入学当初から早大に出向き、探っていた可能性があります。

そして2年生の時に朝鮮独立について学友と話しをしている大原麟瑞に目を付け、近づき白鷺荘でグループの中心人物の一人であるである松本鏑禧に出会ったところから約1年間内偵を進めグループの全貌を特高に流し、検挙に至ったと推察しています。

 

社会派映画監督の故山本薩夫は1932年早稲田大学に入学しますが、翌年軍事教練反対のための学生集会を開いたため逮捕され、中退を余儀なくされ、その後警察の監察下に入り年に1度警察に呼ばれることとなりました。

統一教会史上巻によれば、早稲田高等工学校在学中の文鮮明は「・・学徒らをも「学兵」という美名のもとに徴兵し砲弾の代用として多数を犠牲にする計画を立てて実行に移したのであった。 韓国人留学生達は事前に一斉に抗議集会を開いて気勢を上げた。この抗日運動の首謀者の一人が文鮮明先生であった。」とあります。

山本薩夫は退学処分で年に1度の呼び出し、それに比べ文鮮明は要視察人物で月に一度の呼び出しがあったと言っています。
もし、特高月報の「早大生、江本某」が文鮮明ということであれば、なぜ山本薩夫のように退学処分にならなかったのでしょうか。

しかも山本薩夫は年に1度でしたが、文鮮明は月に一度に呼び出しを受け、調書に手が痛くなるほど書いたそうですが、なにをそんなに書く必要があったのでしょうか。特高のスパイだったからこそ戸塚署に出向く頻度が高かったのではないでしょうか。

彼は同胞の開く朝鮮独立を願う集会に出かけて行って、どういう人物が中心であるか同胞に成りすまして内偵していた。そのために戸塚署に報告する内容も膨大であったと考えられるのではないでしょうか。

戦後60年経った今日、歴史の証人の殆どはこの世にはいません。

当時早稲田大学にいないと証明されている江本姓の留学生について、なぜ特高月報の記録した人物は「早大生、江本某」としたのか。

こんな言い分もあるかも知れません。
「早大生」という表記は、早稲田高等工学校は早稲田大学の校舎を使って開校された学校であり、特高が早大生と勘違いして表記したものだ、「江本某」という表記は、文先生がうまく自分の活動を隠し、ノンポリで反省しているように見せかけたことに成功したので特高も要視察人物程度に収めたのだと。

でも特高が在籍している学校名を勘違いしての誤記などあり得ません。なぜならば、この朝鮮人留学生の反体制的動きの資料は、姜得相著「朝鮮人学徒動員―もう一つのわだつみのこえ」によれば朝鮮人留学生を管理している朝鮮総督府刑務局にも上げられるからです。

すなわち早稲田大学に実在しない「早大生、江本某」の存在は朝鮮総督府も認めたと考えるのが自然なのです。
当時の朝鮮総督府で朝鮮人留学生の活動を監視していた部署は刑務局です。

そのトップは三橋孝一郎です。文鮮明が日本留学する直前まで刑務局長を務めていました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C%E8%AD%A6%E5%8B%99%E5%B1%80

 

 

参照

昭和49年5月7日「文鮮明 『希望の日』晩餐会」(帝国ホテル)に早大村井資長総長が出席

昭和50年2月8日1800双合同結婚式(韓国合同結婚式に参加することが社会問題化)

昭和50年(1975年)の早稲田大学の名簿で昭和19年卒業者「山本朋成(文鮮明)」という記載

昭和50年4月27日 全国原理運動被害者父母の会が結成される。

昭和50年6月5日 「昭和特高弾圧史全8巻」が太平出版より発刊 

昭和50年8月15日 山口浩著「原理運動の素顔」発行・・・早大に在籍していないことが判明

昭和51年 村井総長のセミナーハウスが夫人の押印で統一教会に奪われる事件

昭和52年 早稲田大学は村井資長総長名で文鮮明「江本龍明」が早稲田高等工学校(夜間の各種学校)卒であることを明らかにする。山本朋成は別人。

昭和53年 「統一教会史 上巻」発刊

昭和54年 茶本繁正「原理運動の実態」

平成23年 「平和を愛する世界人として」増補版で特高月報「早大生、江本某」は文先生。

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その他の参照事項

昭和47年に早稲田の大学紛争で学生が死亡事件。当時の原研のパンフで文鮮明の早稲田大学留学時の名前が「山本朋成」であるとし、抗日活動をしていたと宣伝。下宿先文鮮明は三橋孝蔵氏の娘さんと恋に陥り、彼女は騙されて他の男性と過ちを犯し自殺したということも書かれていたが、後で嘘だとばれる。
 
三橋家からチフスで死んだのであり、そんなふしだらな娘ではないと抗議される始末。

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コメント

ブログを再開されたのですね。
今回の記事はとても興味深く読ませていただきました。

三橋孝一郎・・・・朝鮮総督府刑務局長
三橋孝蔵・・・・・・文鮮明が下宿した三橋家のご主人

名前がよく似ていますが、兄弟なのでしょうか。もし兄弟とか親戚となれば、文鮮明が日本留学以前に三橋孝一郎氏からスパイの任務を負わされ、三橋家に下宿した可能性が高いのではと思いますが。

銀次さんへ

銀次さんの推測が事実であれば、私の文鮮明スパイ疑惑というテーマに決定的な情報となると思いますが、今となっては個人の戸籍を調べることなどできるわけがありません。
ご両家の縁者の方で調べていただけるといいのですが?

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