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戦時下の文鮮明

2013年10月 9日 (水)

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ④なぜ「江本龍明」という名を隠そうとしたのか

母親の介護でブログを休んでしまいました。
暑さも遠ざかり母親の体調も回復し、少しづつブログは再開したいと思います。
前回からの続きです。
この記事は、戦時下の文鮮明をテーマとしている私の現時点における集大成です。
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文鮮明の日本留学時代の「早大卒」という学歴について昭和50年(1975年)を境に統一教会の扱い方が大きく変わります。
大きな要因は、この年の前後に反統一教会の社会的動きが大きくなり、ジャーナリストや知識人によって文鮮明の経歴のいろいろな嘘が暴露されていったことが考えられます。

本題に入る前に前回の統一教会による資料をまとめますが、この資料の年代と事項は現在統一教会が公式に認めているものです。
まとめますと、最近の「特高月報の早大生、江本某は文先生だ」(文鮮明自叙伝「平和を愛する世界人として」増補版)という記述を除けば、以下のようになると思います。

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文鮮明は創氏改名後の名前を江本龍明とし、1941年4月早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学。(この年12月太平洋戦争開戦)。

新宿区西早稲田一丁目にある三橋孝蔵氏の家に卒業するまで下宿するのですが、留学時代の地下活動について言ってきたことを以下列挙します。

1、東京留学三年間、激しい抗日運動をし、友達と秘密結社を組織した。

2、中国で亡命中の韓国臨時政府の金九と背後で連絡をとり地下運動をした。(1978年統一教会史上巻)

3、要視察人物となり、日本留学中には毎月一度ずつ警察に呼ばれ行動を監視されていた。

4、徴兵に対する韓国人留学生の抗議集会が開催され、その首謀者の一人が文鮮明。

5、戦局の悪化とともに、卒業を半年繰り上げて1943年9月に卒業。自分は理系だったので徴兵免除。

6、卒業後すぐ半島に戻り「鹿島」に電気技術者として就職。

7、就職後、日本での地下運動がばれて拷問されるが、拷問後鹿島に戻ることができた。
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それでは1975年より前には彼らはどのように言っていたのでしょう。

学歴と名前について考えてみます。

ここに2冊の著書を紹介します。(URLをクリックして北風と太陽OCN版からダウンロードしてください)

「原理運動の素顔」山口浩著(エール出版社)(1975年発行)・・文は本当に早稲田大学を卒業しているのかP135

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/05/post_55aa.html(全文)

 

「原理運動の実態」茶本繁正著(三一書房)(1979年発行)・・早大時代の謎 p100p103
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/05/post_2f7b.html
 (全文)

 

統一教会は文鮮明の留学時代の抗日運動については事あるごとに言ってきました、また「早大卒」については、この2冊の本が出版された当時の段階では、文鮮明本人が言っていたのか、日本統一教会の幹部がでっち上げたものかわかりませんでした。

文鮮明本人の発言であることを決定づけたのは、1993年週刊ポストに掲載されたジャーナリスト大林高士の崔先吉(文鮮明の最初の妻)へのインタビュー記事でした。

崔先吉女史 が文鮮明師との離婚原因を明らかにする・・・・ 199310.08週刊ポスト

http://freedom-cult.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/19931008-6851.html

 

この記事によって、文鮮明は見合いに際して早稲田大学を卒業したと言っていたことが彼女の証言で明らかとなったのでした。

 

しかし入学したのがいつなのか、卒業したのはいつなのか、もともと嘘の学歴ですから仕方なないことですが、彼らの扱いは一転二転します。1974年の早稲田の原理研のパンフで入学年を1936年とし、日本名を『山本朋成』と記入したのが最初と思われます。

ところが、ネットで検索すると、昭和50年(1975年)の早稲田大学の名簿で昭和19(1944)卒業者「山本朋成(文鮮明)」という記載があるようです。

8年も大学に在籍などあり得ない話なのですが、統一教会と原理研究会はおそらく、文鮮明の虚偽の言葉を真に受けて在籍しない文鮮明の亡霊学生に振り回されていたと思われます。

 

この経緯について、「原理運動の実態」によれば昭和47年(1972年)の早稲田の大学紛争での早大生川口君の死亡事件を契機に、早稲田原理研(中心人物は井口康雄)が左翼学生運動を憂うキリスト者を装い、巧みに早稲田当局内部に人脈を作り出し、早稲田大学村井総長夫妻にたどり着き、昭和50年発行の卒業名簿に昭和19(1944)卒業者「山本朋成(文鮮明)」という大嘘を明記させることに成功したと思われます。

そして村井総長は統一教会の狙いを知ることもなく、昭和49年5月7日「文鮮明 『希望の日』晩餐会」(帝国ホテル)にも出席していたのでした。

 

ところが昭和50年発行された山口浩著「原理運動の素顔」によれば、文鮮明の創氏改名後の名前が「山本朋成」ではなく「江本龍明」であり、早稲田大学に在籍していなかったことが彼の調査や毎日新聞の記者の調査で明らかとなったとあります。

このころから文鮮明の早稲田大学卒という学歴、名前について統一教会の雲行きが怪しくなり始めます。
そして翌年(51年)には、村井総長名義の故川口君の記念するセミナーハウスが統一教会に奪われる事件が発生し、村井総長は統一教会により騙されことを知ることとなり、裁判となります。
週刊文春等のマスメディアでも取り上げられ、統一教会問題が社会的にクローズアップされることになったのです。
そして、早稲田大学は52年になり文鮮明が早稲田大学の卒業生ではなく、早稲田高等工学校卒(夜間の各種学校)であることを明らかにしたのでした。


更に、53年には参議院議員市川房江の呼び掛けによる「原理運動を憂慮する会」が発足し、会長に早稲田大学の村井資長総長が就任し、神学者浅見定雄氏らが参加し統一教会問題が国会の場でも大きく取り上げられるようになっていったのです。

 

「江本龍明」という名前を隠したかった文鮮明と 特高がその正体を隠したかった「早大生、江本某」

 

早稲田高等工学校は当時の専門学校令で云う高等工学校ではなく、各種専門学校としての認可だったのですが、カリキュラムは早稲田大学理工学部が施設と教員を提供したものであり、電気、機械、建築、土木の分野で資格を取得しうる教育がなされたようです。
戦後専門学校への昇格申請が認められず閉校となったのですが、働きながら学ぼうとする当時の苦学生に門戸を開いた学校です。

では、なぜ文鮮明がそこで学んだことを正直に言えなかったのでしょうか。

彼の法螺吹きの性格を鑑みてみると、当時の早稲田原理研を利用し、あらゆる手を使って大学の資料を書き換えてでも「早大生、文鮮明」を演出したかったということが考えられます。

 

皮肉にも、文鮮明の学歴詐称が暴露された昭和50年というのは、戦前、戦時中の特高月報の記録をそのまま掲載した「昭和特高弾圧史全8巻」が発刊された年でもあります。
第8巻の「朝鮮人に対する弾圧」での「早大生、江本某」の記述に恐らく文鮮明も驚いたと思います。

 

学歴詐称が暴露された直後でもあり、統一教会は今のように「早大生、江本某」が文鮮明であると名乗り出ることができなかったようです。

それ以来、統一教会は文鮮明のプロフィールで「早稲田高等工学校」という事実を明記せざるを得なかったのです。

 

実は特高月報の「早大生、江本某」というこの表現にも、大きな矛盾があるのです。

特高月報をもとに早稲田大学に問い合わせをされた方がいます。彼の調査よれば、当時早稲田大学に朝鮮人留学生で江本姓の学生が在籍していないことが明かとなっています。

それでは、特高月報の「江本某」は、誤記だったのでしょうか。


実は、特高月報よく読んでいきますと、あるグループが検挙される事件の報告に、ときどき「○○某」という記載があるのです。

そして、「社会運動の状況/内務省警保局編」全14冊三一書房(19711972)の中には、特高が怪しいグループを内偵する際必ずグループの仲間に成りすました人物の存在が明らかとなっています。スパイです。

「○○某」は特高のスパイと考えると、文鮮明が江本姓を隠した理由と特高が船橋グループ検挙事件の報告書に一人だけ(江本)だけフルネームにしなかった理由が一致するのではないでしょうか。

 

彼は早稲田大学に放たれた特高のスパイであり、夜は早稲田高等工学校の生徒であり、昼は早大生に成りすました生活を送っていた。

戦争が終わり、もともと法螺吹きの性分から早大卒と云ったのはいいが、同胞を特攻に売り渡した「江本」姓は隠し「山本朋成」と言わざるをえなかった。

こう考えるとすべて説明がつくと私は思うのです。

山口浩氏はいみじくも

「卒業生名簿に載っていなくとも、文鮮明は早大に在学していたとでもいうのか。」

と述べています。

 

その後1978年発刊された統一教会史上巻には「中国で亡命中の韓国臨時政府の金九と背後で連絡をとり地下運動をした。」という記載があります。

金九という朝鮮人は当時、蒋介石の金銭的な支援を受け朝鮮独立を目的とした臨時政府を打ち立てた人物で、今日その功績を称えるべくソウルに白凡記念館があります。

韓国の民族運動家・金九の生涯を知る「白凡記念館」
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=2058

 

「昭和特高弾圧史全8巻」の第8巻「朝鮮人に対する弾圧下」には

()昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鏑禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲綿せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇勤を為したり。

 

今、統一教会は、この統一教会史上巻の記述と特高月報の一致を見て、特高月報「早大生、江本某」は文鮮明だという宣伝を、実在しなかった早大生文鮮明という大きな矛盾に目を瞑りながら展開しています。

ここまで読まれてお気づきの方も見えると思いますが、彼の口から具体的に臨時政府に金九の名前が出てきたのが昭和53年の「統一教会史・上巻」だとするならば、「昭和特高弾圧史全8巻」は3年前に発刊されているのですから、後出しジャンケンの好きな統一教会が口裏を合わせたと言われても仕方のないことです。

 

文鮮明こと江本龍明は、早稲田大学朝鮮人留学生の諜報活動を担うことを負わされた特高が認めた「早大生」だった。

だから彼は経歴で「早大卒」とは言えても、「江本龍明」と名乗ることはできなかった。

特高側も諜報者がばれないように、記載を江本某としか曖昧にせざるをえなかったと思われます。

特高月報「在船橋市朝鮮人苦学生を中心とする「民族主義ゲループ」事件」では逮捕され罪状が決定したのは主犯格である神田恩波他10名です。月報から読み取りますと、江本某が検挙されていない理由は、彼は戸塚の白鷺荘に呼ばれ地下活動グループに勧誘されただけのノンポリの早稲田大学生という位置づけようです。

彼の言葉から留学当初から3年間地下活動をしていたということが本当ならば、罪状が決定して投獄されて当然です。1か月に1度戸塚署に呼び出されていた要観察人物程度では済まなかったと思います。

昭和16年の入学当初から早大に出向き、探っていた可能性があります。

そして2年生の時に朝鮮独立について学友と話しをしている大原麟瑞に目を付け、近づき白鷺荘でグループの中心人物の一人であるである松本鏑禧に出会ったところから約1年間内偵を進めグループの全貌を特高に流し、検挙に至ったと推察しています。

 

社会派映画監督の故山本薩夫は1932年早稲田大学に入学しますが、翌年軍事教練反対のための学生集会を開いたため逮捕され、中退を余儀なくされ、その後警察の監察下に入り年に1度警察に呼ばれることとなりました。

統一教会史上巻によれば、早稲田高等工学校在学中の文鮮明は「・・学徒らをも「学兵」という美名のもとに徴兵し砲弾の代用として多数を犠牲にする計画を立てて実行に移したのであった。 韓国人留学生達は事前に一斉に抗議集会を開いて気勢を上げた。この抗日運動の首謀者の一人が文鮮明先生であった。」とあります。

山本薩夫は退学処分で年に1度の呼び出し、それに比べ文鮮明は要視察人物で月に一度の呼び出しがあったと言っています。
もし、特高月報の「早大生、江本某」が文鮮明ということであれば、なぜ山本薩夫のように退学処分にならなかったのでしょうか。

しかも山本薩夫は年に1度でしたが、文鮮明は月に一度に呼び出しを受け、調書に手が痛くなるほど書いたそうですが、なにをそんなに書く必要があったのでしょうか。特高のスパイだったからこそ戸塚署に出向く頻度が高かったのではないでしょうか。

彼は同胞の開く朝鮮独立を願う集会に出かけて行って、どういう人物が中心であるか同胞に成りすまして内偵していた。そのために戸塚署に報告する内容も膨大であったと考えられるのではないでしょうか。

戦後60年経った今日、歴史の証人の殆どはこの世にはいません。

当時早稲田大学にいないと証明されている江本姓の留学生について、なぜ特高月報の記録した人物は「早大生、江本某」としたのか。

こんな言い分もあるかも知れません。
「早大生」という表記は、早稲田高等工学校は早稲田大学の校舎を使って開校された学校であり、特高が早大生と勘違いして表記したものだ、「江本某」という表記は、文先生がうまく自分の活動を隠し、ノンポリで反省しているように見せかけたことに成功したので特高も要視察人物程度に収めたのだと。

でも特高が在籍している学校名を勘違いしての誤記などあり得ません。なぜならば、この朝鮮人留学生の反体制的動きの資料は、姜得相著「朝鮮人学徒動員―もう一つのわだつみのこえ」によれば朝鮮人留学生を管理している朝鮮総督府刑務局にも上げられるからです。

すなわち早稲田大学に実在しない「早大生、江本某」の存在は朝鮮総督府も認めたと考えるのが自然なのです。
当時の朝鮮総督府で朝鮮人留学生の活動を監視していた部署は刑務局です。

そのトップは三橋孝一郎です。文鮮明が日本留学する直前まで刑務局長を務めていました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C%E8%AD%A6%E5%8B%99%E5%B1%80

 

 

参照

昭和49年5月7日「文鮮明 『希望の日』晩餐会」(帝国ホテル)に早大村井資長総長が出席

昭和50年2月8日1800双合同結婚式(韓国合同結婚式に参加することが社会問題化)

昭和50年(1975年)の早稲田大学の名簿で昭和19年卒業者「山本朋成(文鮮明)」という記載

昭和50年4月27日 全国原理運動被害者父母の会が結成される。

昭和50年6月5日 「昭和特高弾圧史全8巻」が太平出版より発刊 

昭和50年8月15日 山口浩著「原理運動の素顔」発行・・・早大に在籍していないことが判明

昭和51年 村井総長のセミナーハウスが夫人の押印で統一教会に奪われる事件

昭和52年 早稲田大学は村井資長総長名で文鮮明「江本龍明」が早稲田高等工学校(夜間の各種学校)卒であることを明らかにする。山本朋成は別人。

昭和53年 「統一教会史 上巻」発刊

昭和54年 茶本繁正「原理運動の実態」

平成23年 「平和を愛する世界人として」増補版で特高月報「早大生、江本某」は文先生。

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その他の参照事項

昭和47年に早稲田の大学紛争で学生が死亡事件。当時の原研のパンフで文鮮明の早稲田大学留学時の名前が「山本朋成」であるとし、抗日活動をしていたと宣伝。下宿先文鮮明は三橋孝蔵氏の娘さんと恋に陥り、彼女は騙されて他の男性と過ちを犯し自殺したということも書かれていたが、後で嘘だとばれる。
 
三橋家からチフスで死んだのであり、そんなふしだらな娘ではないと抗議される始末。

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2013年5月 7日 (火)

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ③統一教会の資料から

文鮮明の留学時代から半島の鹿島に就職?するまでのスパイ疑惑に関わる統一教会側の資料として、

A,日本留学-経験の拡大(統一教会史 上巻)

B,み言葉(信仰と生活 第4集)

から引用します。

 

A,日本留学-経験の拡大(統一教会史 上巻)より

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/05.htm

以下適宜コピー

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 一九四一年三月、先生は二十二歳でソウルでの中学教育課程を終え、東京へ留学の途に発たれることになった。

 先生は東京に到着するとすぐ、早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学された。

 東京では韓国人学生二、三名と共に早稲田大学に近い新宿区西早稲田一丁目にある三橋孝蔵氏の家にずっと下宿をされたのである。その頃もっとも親しく過ごされた学友としては、建築家、厳徳紋氏がいる。

 先生は、一人苦学生として川崎造船所のようなところにも行かれ、そこで石炭の運搬など重労働も多くなされた。そして仕事をするときにも、始めから請け負い形式でされるのである。まず、作業量においてその会社の労働者たちと対決される。

 略

 また休日には川崎の航空会社にもよく行かれた。

 

 そこには硫酸タンクがあって、その中で浄化作業をするのであるが、その方面の専門的な労働者たちでさえも普通そのタンクの中に入って一回に十五分以上は仕事をすることが出来ない。

 先生は東京留学三年間、実際に激しい抗日運動をされ、それに応じて苦痛も多く受けられた。

 友達と秘密結社を組織し、民族感情を鼓舞する一方、中国で亡命活動をしていた韓国臨時政府の金九と、背後で連絡をとりながら地下運動を展開された。

 先生は要視察人物となっていて、どこに行っても常に心安まる日はなかった。日本留学中には毎月一度ずつ警察に呼ばれるのみならず、常に行方と日常行動を監視されていて、その目から逃れることができなかったのである。

 後に日本軍閥は、力に余る第二次大戦において敗勢が見え始めると、最後は罪のない韓国青年、学徒らをも「学兵」という美名のもとに徴兵し砲弾の代用として多数を犠牲にする計画を立てて実行に移したのであった。 韓国人留学生達は事前に一斉に抗議集会を開いて気勢を上げた。この抗日運動の首謀者の一人が文鮮明先生であった。

 

 この留学生会の集会時には常に特高警察が立会い干渉した。

 

 そのような状態では先生は、露骨に扇動的演説をすることができずに、韓民族の若い血を湧きあがらせるような歌を、気が狂ったように大声で歌って、会場を盛り立たせることもあった。

 

 先生は常に特高警察の刑事たちに尾行された。休みになって韓国に帰られると、釜山の港において迎えに来てくれるのは特高警察の私服警官であり、休みが終わって行かれる時も、この情報を第一に聞くのは日本の警察組織であった。先生はこのような緊張の中で学業を続け、将来の膨大な使命を考えながら、高い理想を育てて行こうとされたので、一日たりとも安楽な日を過ごすことができなかった。常に地味な学生服や、労働服姿で苦行に近い勉強をしながら、神のみ旨を最大に重要視されたので、他の人々と同じように富士山に登山したり、熱海や箱根、日光などの名所地観光のようなことは考えだに及ばなかったのであった。そうして、いつの間にか三年の月日が過ぎていった。

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B,み言葉(信仰と生活 第4集)より

http://tm1800.malsm.info/sinkoutoseikatu_4_1_txt.html

以下、適宜コピー

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「拷問を受ける」
 今まで、まあこういうことやりながら拷問も沢山された。本当はね、韓国は日本に三十六年か四十年支配されたでしょう。その時先生はね、日本の警官らに随分拷問されたよ。それを思えば、本当に昔は国を愛し得ない者が天を愛し得ないんだね。まあ、こういうことを言ったらちょっと何だけどね、地下工作をしたんだ。それが分からない。そして「日本に何十年後に世界情勢はどういう風になる。」と。・・・・・・・・・・・

                   1965108日 早成寮にて語られたみ言

「牢屋」
 だから韓国に行って日本の政権下時代、牢屋に何回も行ったことがあるよ。その牢屋の中に何回も引っ張り出された。東京に行っておる時もね。警視庁に一ヶ月に一回呼ばれたね。高田馬場の通りのね、早稲田の方から右の方にあるんだね。(現在の新宿区戸塚警察署)先生が韓国に帰るというと連絡が来るんだね。「誰それが韓国に帰る」と。要注意人物だ、学生だけどね。先生は普通の人は分からない。
                           1965108日 早成寮にて語られたみ言

「刑事」
 昔、先生も刑事なんか調書なんか作る時も、ずーっとあまり沢山の調書があるもんだから、手が痛くて、刑事さんの顔つきはこうでこうですね。あんたの父母はいないですね。結局話し合うというと、惚れてしまうんだよ。そして談話する。イエス様の聖書に現われる実体より以上の実体として話すんだよ。
                       1971323日 大学卒業生訪韓団に語られたみ言



下宿:東京都新宿区(現在は西早稲田二-六-十三)三橋孝蔵宅に於いて」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「文鮮明先生は、下宿していた頃よく品川に労働に行かれていたので、苦学生とばかり思っていたが、後で家は裕福なのに、わざわざ苦労する為に労働に行き、友人におごって上げていたと聞いて、大層立派な人だと再認識しました」などと先生を大賛美された。更に「一九六五年十月に私共の家を訪問されました時、おばさんの小使いにと三十ドルお土産の代わりに下さり、また二時間かけて捜して訪ねられたと聞き、そのお気持ちは大変なものだと思います。そんな人はなかなかいないですよ!」と語気を強くして語ってくれた。
             一九七五年三月発行 「聖徒」掲載 三橋家に先生より手紙来たる


P71
・第五節 帰国と終戦

「帰韓 母の愛」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・先生の卒業の時、大東亜戦争中で兵役問題とかで六ヶ月短縮して九月に卒業した。関釜連絡船で帰ることになり何時に着くと電報をして於いたのです。しかし事情があって、切符を返して行かれなかった。丁度その船が戦争で沈没してね。故郷では、乗船名簿を調べたら名前がない。・・・・・・・・・・・・・・・・・

                一九六五年十月七日  婦人部話動会に於けるみ言

「就 職」
 学生を卒業して、その時徴兵問題がありまして、工科系統の者はね、それは、徴兵に、兵隊に行かなくて引っ張られなかったんですね。それでまあ、就職するために先生は満州のソ満国境の゛ハイラル゛という所に行くように決めたわけであります。それは、学校で、就職の斡旋をしてもらって、そこを、それを決めたのは、そこに行けば、ソ連国境である。それは、満州語、或いは中国語を習うし、ソ連語を習うし、それから蒙古語を習うことが出来るんだね。
 それで、今後のアジアの伝道舞台、神の摂理圏を思いながら、苦しみのはれなき道はあろうけれども、その地に行って、色々な言葉を勉強しなければならないという観念でもって、そこを推薦していって行くようにしたのです。
 しかし、いよいよ韓国へ行って見て、四十日ぐらい待ってみると、街の情景が不安だということを予感しまして、「これは行ってはいけない。」そこで、満州電業に就職したる担当に行って、支店長に会って、それは取り消すように喧嘩したのが昨日みたいに思い出しますね。
                            一九七四年五月十二日 僑胞へ語られたみ言

一九四四年 土木会社である鹿島組電気技師として就職された。 (ソウル)一九四四年 十月から一九四五年二月まで、京畿動警察本部で日本留学時の抗日運動事業が発覚され、逮
捕され極悪無道な拷問を耐えて勝利された。一九四五年 三月、再び鹿島組に採用され勤務なされ、八.・十五解放によって退職された。一九四五年 八月十五日 原理究明の大部分を終え、原理伝播を始められる。

「日本人への許しと愛」
 先生に於いては日本人は怨讐であった。日本の憲兵によってそうとう拷問された。血を吐き、生死の境界を何十回も往来した男だ。時来たらばそれ全体をいっぺんに復讐してしまっても、あまりあるようなそういうような立場に於いてつらさを感じた男である。しかし、日本が第二次世界大戦に負けたそれ以後に於いて、我そくざに命令すれば一度に数十名の日本の憲兵の首が飛んでしまうであろう。しかし、それは神の戦法に違反することをよく知っている。それで追われる日本人、かくれがを探している日本人をかき集めまして、隠してやり、荷物を包んで送ってやった男である。そういう意味に於いて日本人は文さんに借金をしておる。
                                一九七二年五月六日  我々と神

 先生はまあ、随分拷問された。その話をされたら二分と聞かれない。この土迄を掘って、それを土にして飛ばしたい程の拷問をされたよ。こんな話があるんだね。戦争が終わると同時に、拷問したその高等刑事-その時は高等係りといい、名前はく知っている-先生が友達に命令したらその時にもう飛んでしまうんだよ。しかし先生はそういう友達にみんな聞かせて、「可哀相なのは日本の人である。神様は打たれる者を打つ者を横の人が神様に協助して打つのを、神は罰する。まあ打たれとるから可哀相な立場である」だから先生は先生の知っておる日本の方に対してはみんな先生がよくして送ってやったよ。「君達早く帰れ!」と、沢山あるんですよ。今も会えばその人達もおるでしょうね。しかし、先生が日本の政府によって迫害されたそういうことを思わざるを得ないんだけれどもね。しかし先生の主義はそういう主義じゃない。先生の願う希望、そういう希望じゃない。               

              一九六五年十月八日  早成寮にて語られたみ言

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つづく 文鮮明 特高のスパイ疑惑 ④なぜ「江本龍明」を隠そうとしたのか






2013年4月22日 (月)

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ②特高月報該当記事全文/昭和特高弾圧史第8巻より


在船橋市朝鮮人苦学生を中心とする「民族主義ゲループ」事件
・・昭和特高弾圧史第8巻より

 

グループ結集経緯

中心人物神田恩波は昭和十年内地に渡来し、京都・東京を転々し苦学し来り昭和十七年二月頃より船橋市に居住し、新聞配達を為しつつ東京都麹町区所在東部神学校に入学し勉学中なるが、苦学の過程に於て民族的反感を極めて先鋭化し、昭和十六年八月頃より同様新聞配達等を為す苦学生或は千葉県下所在明倫中学(昭和十七年七月不良学校の為め閉鎖さる)在学中の朝鮮人、又は同郷出身関係の知友等に対し、朝鮮が独立するに非ざれば今日の朝鮮民衆の苦難なる環境は改められざる旨を申し向け、相共に民族的不満、乃至反感を論談しつつありたり。

斯くて此の間国本政雄(同業関係)、大原麟瑞(明倫中学生)、金沢昌植(明倫中学生)、安田文奎(明倫中学生)、吉許武雄(関東商業生)等と逐次思想的に意気投合し蝕に神田恩波を中心として六名の同志の結集を見たり。

一方国本政雄・吉許武雄は同郷関係の交友を指導啓蒙して、治川信篤(在東京神田区満蒙学校生)、金山吉龍(在神田区昌平中学生)、許文現(中大法学部生)、城山弘忠(明倫中学生)、玉川文雄(明倫中学生)等を逐次同志として獲得し本名等を中心とする同志の結集を為し、両者相連係して秘に独立意識の高揚、団結の強化等に晴躍する所ありたり。

 

策動概要

前記の如く苦学の過程等に於て相当深刻なる民族的反感を包持するに至りたる彼らは思想的に全く意気投合し相共に朝鮮民族の為に献身せんと為し屢会合し密に独立運動の教義扇動を為しつつありたるが主要なる点を摘録せば次の如し。

(一)昭和174月より同年9月迄の間舟橋市本町2丁目1180番地吉岡正吉方、神田の下宿、市川市中山492番地小川宗作方、大原の下宿等に於て神田恩波、城山弘忠、大原麟瑞、金沢昌植・国本政雄は二名乃至四名にて前後十数回に亘り屡会合し朝鮮問題を検討し、殊に大東亜戦争の長期化に伴ひ日本は国力衰退し武力、思想的に逼迫動揺し遂には敗戦に至るべく此の機に乗じ海外独立運動団体と連絡提携し、一斉に武装蜂起以て祖国朝鮮独立を実現せしむべく之が準備として同志特に指導的人物の養成獲得を為さんとし其の手段方法並に具体的任務等につき協議を重ねたり。

()昭和十六年十二月より昭和十八年三月迄の間神田恩波・国本政雄・城山弘忠・大原麟瑞・金沢昌植・安田文奎・吉許武雄・金山吉龍は各自の下宿を輪番的に会合所と為し又は千葉海岸等に於て二名乃至四名にて前後数十回に亘り屡会合し「戦局の推移」「内地人の朝鮮人に対する差別」「就職、就学、下宿難の実情」「朝鮮民衆の生活状況」「内地婦人との結婚問題」「徴兵制の実施」「創氏改名」「朝鮮文化の滅亡」等の問題に関し検討し民族的立場より批判論議して独立の必要性を強調し以て相互に意識の高揚を図りたり。

()昭和十八年四月東京都麹町区所在東部神学校に於て神田恩波は友人たる鮮人学生金城英雄・文城容梧の両名に対し学校入学制限問題に関し我々朝鮮人が差別を受くるは独立国家民族に非ざるものなるを以て朝鮮民族の幸福の為朝鮮独立は絶対必要なりと強調し以て之を同志に獲得せんと扇動せり。

()昭和十六年十一月より昭和十七年九月迄の間東京都神田区神保町一二金海方青海下宿、又は東京都中野区東中野駅付近等に於て治川信島は青松陸燥と膜会合し同人より朝鮮独立運動参加の勧誘を受け之に参加し大東亜戦下独立運動展開の絶好機会なるを以て同志獲得を為すべしと之が手段方法及具体的任務等につき協議を重ねたり。

)昭和十六年八月より昭和十八年四月迄の間金山・吉許・許文現等の下宿に於て治川信篤は同郷出身関係たる吉許武雄・金山吉龍・国本政雄・許文現外五名等に対し前後十数回に亘り二名乃至六名会合せる際「戦局の推移」「朝鮮に於ける内地人官憲の圧迫状況」「徴兵制の実施」「朝鮮人に対する内地人の差別」「海外に於ける独立運動の活動状況」「内地在住朝鮮人学生の無自覚」等につき民族的立場より批判矯激なる言辞を以て論議し朝鮮独立の必要性を強調し之を以て同志を獲得すべく宣伝扇動を重ねたり。

()昭和十七年一月より昭和十八年六月迄の間金山吉龍・吉許武雄・許文現・国本政雄・治川信鶴等は各自の下宿等に於て前後数十回に亘り二名乃至四名にて屡会合し「戦局の推移」「就職、就学、下宿難問題」「朝鮮人に対する差別」等に関し民族的偏見より批判すると共に朝鮮独立は血を見ずしては不可能なり、我々朝鮮人は団結すべきなりと矯激なる言辞を以て論議し以て朝鮮独立に献身すべき決意を披渥し団結の強化を図りたり。

()昭和十八年六月東京都江戸川区小岩町四ノ一九五六豊荘玉川の下宿に於て城山弘忠・玉川文雄の両名は前後三回に亘り会合し朝鮮問題に付検討し殊に大東亜戦下朝鮮独立の絶好機会なりとして同志獲得を為すべく協議を重ねたり。

()昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鏑禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲綿せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇勤を為したり。

措置

千葉県に在っては船橋市居住朝鮮人苦学生及び管下所在明倫中学朝鮮人学生等が屡会合する等容疑行動あるを偵知し、本年66日以降関係者11名を検挙し、取調べたる結果叙上事犯の内容判明せるを以て左記の通千葉地方裁判所検事局に送局せり。

 

検挙者(検挙された月日の年号は昭和一八年と推定される)

「kenkyosha.docx」をダウンロード

つづく

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ③統一教会の資料からの検証

 

2013年4月18日 (木)

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ①現在閉鎖されているヨシュアさんのブログ「カルトからの自由」から検証

最近、文鮮明の留学時代の路程を辿る統一教会の巡礼活動が盛んになってきています。

初詣「早稲田・高田馬場」聖所巡礼に350人が参加(統一教会HP

http://www.ucjp.org/?p=14460

 

一つ気になることがあります。

統一教会は一昨年9月「平和を愛する世界人として」増補版(単行本)で、特高月報で特高に検挙された「江本某は文先生だ」と云い始めたのです。

文鮮明の拷問話を裏付けるものだと宣伝し、最近では拷問した日本人憲兵が生きていたという宣伝までしているのです。

自叙伝の増補版が出版 日本にまつわる歴史的秘話を特別収録

http://sekaijin.jp/?page_id=1107

一部コピー

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反日地下活動
 『昭和特高弾圧史8』(太平出版社)には、次のような記録が残されています。  「昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鎬禧の三名に対し支那?介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲得せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇動を為したり」
 ここに記されている「早大生江本某」とは、文先生のことです。

 

日本の刑事からの拷問
 文先生は生涯で六回の収監体験をお持ちです。その一回目の収監がこの時です。一九四四年十月から翌年二月まで収監され、生死をさ迷うような拷問を受けました。このとき文先生の友人で三歳年下の郭(カク)()(ピル)氏も、文先生が逮捕された後、同じ京畿道警察部に連行され、文先生と同じような拷問を受けています。  (中略)  一方文先生はどうかといえば、激しい拷問を受けながら、ともに活動した人たちの名前は言わなかったそうです。命を懸けて「自分一人で闘った」と言い、殺すと脅迫され、全身に真っ黒い血のあざができても口を割らなかったのでした。もし文先生が名前を挙げていれば、先の友人、厳氏も同じように逮捕され拷問を受けていたと本人(厳氏)も証言しています。

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Google Mapで訪ねる主の路程(7)-地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟(前編)  (後編)

http://chofu-uc.org/?p=8976 http://chofu-uc.org/?p=9032

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今になってなぜ、「江本某」が文鮮明だと言い出したのか。

真実は何なのか、あらためて検証していきたいと思います。

検証するにあたって、今は閉鎖されたヨシュアさんのブログ「カルトからの自由」から、ご本人の承諾を頂きまして下記の貴重な記事をPDFファイルとしてアップしました。PDFですので、操作上の都合で「北風と太陽」OCN版にアップしました。

戸塚警察署問題・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2007.12.20 より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20071220_493b.html

 

恩人村井総長を訴えた統一教会・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2007.12.21より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20071221_9121.html

 

独立運動の運動家だった人物が強制連行を実行・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2007.12.24より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20071224_7faf.html

 

綺麗だった文鮮明の背中の話・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2008.01,11より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20080111_e3c9.html

 

独立運動の弾圧と拷問・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2008.01.12より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20080112_38be.html

 

帰郷―日警の拷問・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2008.01.12より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/20080112_a07f.html

 

朴慶植編『朝鮮問題資料叢書第一巻戦時強制連行・労務者管理政策(1)・・現在は閉鎖されている「カルトからの自由」2008.01.12より

http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2013/04/120080112_142c.html

 

つづく

文鮮明 特高のスパイ疑惑 ②特高月報からの検証